戸谷新右衛門(戸谷新右衛門の墓地)
高野山領では幕府の規定した京枡を使わず、容積が大きな讃岐枡を使って年貢を徴収していたほか、差口米もあわせて徴収していたため、農民の生活は困窮していました。
これに対して、享保5年(1720)に興山寺領清水組庄屋・戸谷新右衛門が幕府に直訴し、不正の一件は正されます。
新右衛門は越訴の罪により3年間獄中にあり、その後解き放たれて故郷に帰ったものの、高野山に召し捕られ、ここで石子詰によって凄惨な最期を迎えたという伝説があります。
義民伝承の内容と背景
紀伊国伊都郡の高野山領では、年貢の徴収にあたって幕府が寛文9年(1669)に統一した京枡(1.8リットル)を使わず、容積がより大きな讃岐枡を用いて余分に徴収していたほか、差口米とよばれる税もあわせて徴収していたため、農民の生活は困窮していました。
そこで、興山寺領清水組島野村の庄屋・戸谷新右衛門は、高野山の役僧に訴えますが取り上げてもらえず、享保5年(1720)、清水組をはじめとする75か村の総代として、讃岐枡を持って単身で江戸まで出向き、寺社奉行に対して駕籠訴を行います。
この結果、讃岐枡の使用や差口米は停止されて直訴の目的を果たし、新右衛門も越訴の罪により3年間は牢につながれていたものの、その後解き放たれて故郷に帰ります。
ところが、故郷では新右衛門の帰宅を待ち受けていた僧侶らに捕縛され、高野山の規則により、高野山奥之院の玉川の河原で石子詰(主に僧侶や山伏に適用され、掘った穴の中に罪人を座らせて石を打ち付け、そのまま石で埋め殺してしまう特殊な処刑方法)によって凄惨に処刑されたという伝説があります。
明治時代になって、自由民権運動の高まりとともに、この伝説も人口に膾炙するようになりますが、当時は「島野村」なる村も存在しなかったなどの理由から、伝説の内容は史実ではなく、明治時代の創作の部分が大きいとされています。
もっとも、いまの和歌山県橋本市南馬場地内には、戸谷新右衛門の墓地とされる風化した宝篋印塔が残されており、和歌山県の史跡としての指定を受けています。
戸谷新右衛門の墓地へのアクセス
名称
- 戸谷新右衛門の墓地 [参考リンク]
場所
- 和歌山県橋本市南馬場地内
(この地図の緯度・経度:34.3059, 135.5919) 備考
- 「戸谷新右衛門の墓地」は、紀ノ川沿いの南馬場緑地広場近くの共同墓地の奥にあります。この墓地に隣接して「義人戸谷新右エ門之碑」の大きな石碑も立っています。JA紀北川上マルガク総合選果場前の道路を東に進んだ突き当たりに共同墓地があり、駐車場はないものの、墓地の入口付近だけは道幅が広くなっています。
参考文献
- 橋本市史 (1975年)
- 東洋民権百家伝 (岩波文庫 青 104-1)
- 伊都義民戸谷新右衛門小伝
- 和歌山県の歴史 (1970年) (県史シリーズ〈30〉)
- 『紀州史研究叢書』第25号(和歌山大学紀州経済史文化史研究所、1983年)
[参考文献が見つからない場合には]