杉木茂左衛門(磔茂左衛門)(茂左衛門地蔵尊千日堂)
真田信利が治める沼田藩では、寛文年間に藩領の再検地を実施し、石高が従来の5倍近くにもなったため、農民の年貢の負担が著しく増大したほか、台風で破壊された両国橋の用材調達のために農民を労役に駆り出すなどの圧政を続けました。
これに対して、月夜野村(群馬県利根郡みなかみ町)の名主・杉木茂左衛門は、農民を救うために幕府に直訴し、沼田藩真田家は改易となりましたが、茂左衛門は妻子とともに磔に処せられます。
その後、村では茂左衛門の供養のために地蔵を祀っていましたが、明治、大正年間に「磔茂左衛門」として戯曲化されるなどして再び注目が当てられるようになり、現在では再建された「千日堂」のなかに鄭重に祀られるようになっています。
義民伝承の内容と背景
真田信利が治める沼田藩では、寛文年間に藩領の再検地を実施し、石高が従来の3万石から14万4万石まで5倍近くにもなったため、農民の年貢の負担が著しく増大しました。
また、延宝8年(1680)の台風によって両国橋が被害を受けた際には、沼田藩が幕府から用材調達を請け負い、伐採や運搬のために農民を労役に駆り出したため、さらに農民は困窮することになります。
この状況を見て、上野国利根郡政所(まんどころ)村の名主・松井市兵衛や、上野国利根郡月夜野村の名主・杉木茂左衛門(ともに現在の群馬県利根郡みなかみ町)は、農民を救うため、相次いで真田信利の圧政を幕府に直訴するための行動を起こします。
松井市兵衛は、延宝9年(1681)に江戸に赴いて登城途中の目付・桜井庄之助に直訴をするものの、訴えを取り上げてもらえずに留め置かれ、天和元年(1681、延宝9年の途中で改元)に斬罪となります(「首斬市兵衛」伝説)。
杉木茂左衛門のほうも、江戸市中において老中に駕籠訴をするものの取り合ってもらえなかったことから、計略を巡らして、上野寛永寺の門主である輪王寺宮の菊の御紋が入った偽の文箱に訴状を入れて中山道板橋宿の茶屋に置き捨て、忘れ物と勘違いした茶屋の主人が寛永寺に届け、訴状を見た輪王寺宮が5代将軍・徳川綱吉に伝えるように仕組んだといいます。
その後、幕府の取り調べの結果、沼田藩真田家の悪政の数々があきらかになり、天和元年(1681)、真田家は改易となり、沼田藩領はいったん幕府の直轄地となります。
貞享元年(1684)からはさらに検地が行われ、石高も6万5千石に減少して年貢が軽減されたため、「お助け縄」と呼ばれようになり、結果として直訴の目的は達成されます。
しかし、直訴後に江戸に潜伏していた茂左衛門は、故郷の月夜野に帰ったところを捕らえられ、茂左衛門のために訴状を清書した大宝院住職の昌月覚端法印は石子詰(罪人を生きたまま石を打ち付けて埋め殺す処刑方法)によって処刑され、茂左衛門も輪王寺宮の助命嘆願によりいったんは幕府から赦免の上使が出たものの到着が間に合わず、天和2年(1682)に妻子ともども利根川の竹の下河原で磔によって処刑されたとされています。
その後、村では茂左衛門の供養のために、刑場の河原に3体の地蔵尊を刻んで祀り、千日堂を建てて守ってきましたが、明治時代に入ってから、駒形荘吉の『上毛義人磔茂左衛門伝』(『日本産業資料大系』3巻所収)をはじめとする講談、戯曲の作品を通じて全国的にも有名になり、歴史に埋もれていた千日堂は再建され、「茂左衛門地蔵」がそのなかに鄭重に祀られるようになりました。
磔茂左衛門の伝説は、江戸時代に起きた事実の一端を物語ってはいるものの、これを傍証する史料に乏しく、後世の創作による要素がかなり混じっているものとされています。
茂左衛門地蔵尊千日堂へのアクセス
名称
- 茂左衛門地蔵尊千日堂 [参考リンク]
場所
- 群馬県利根郡みなかみ町月夜野491
(この地図の緯度・経度:36.682204, 138.994911) 備考
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「茂左衛門地蔵尊千日堂」は、JR上越線の後閑駅から500メートルほど北西の、群馬県道273号後閑羽場線(奥利根ゆけむり街道)沿いに入口があります。この入口は歩行者専用のため、マイカーの場合は看板にしたがって裏から迂回するかたちになります。
「義人茂左衛門刑場址碑」(36.6826,138.9954)は、茂左衛門が磔刑に処された竹の下河原にあり、千日堂のある高台の真下、利根川に架かる月夜野橋の袂にあたります。
「義人茂左衛門屋敷跡」(36.6833,138.9862)は、県道273号後閑羽場線(奥利根ゆけむり街道)沿い、月夜野駐在所の隣にあたります。
「茂左衛門地蔵尊奥之院」(36.6812,138.9831)は、県道253号小日向沼田線沿いに入口があり、茂左衛門が捕縛された場所といわれる小袖坂の上の、赤谷川近くの高台に建っています。
参考文献
[参考文献が見つからない場合には]