小木曽猪兵衛(宗吾大明神)
江戸末期の伊那地方は、飯田藩領や幕府の天領、旗本領などが入り組んでおり、現在の飯田市の天竜川の東から泰阜村にかけての一帯にあたる南山郷36か村は、陸奥白河藩領の飛び地として代官が置かれました。
代官の務川忠兵衛の時代には、割高になった年貢に対して百姓が嘆願書を出したところ入牢を言い渡されるなど、苛斂誅求が激しくなったため、安政6年(1859)、伊那郡今田村の庄屋・小木曽猪兵衛や北沢伴助ら南山郷の百姓らは強訴に及びます。
この「南山一揆」では、かつての一揆で村々に犠牲者を出した反省から、統率のとれた行動や江戸表での工作活動などに努めたため、飯田藩の仲介もあって天領並みの課税を勝ち取り、務川忠兵衛も罷免され、百姓からは処刑される者を出さずに収束した、江戸時代としては稀な一揆となりました。
義民伝承の内容と背景
江戸末期の伊那谷地方は、飯田藩領や幕府の天領、旗本領などが入り組んでおり、現在の飯田市の天竜川の東から泰阜村にかけての一帯にあたる南山郷36か村は、弘化3年(1846)以降、それまでの天領から陸奥白河藩阿部氏の領地へと推移します。
白河藩にとっては飛び地となるため、現在の下伊那郡高森町上市田に原町陣屋が置かれて代官が派遣されますが、嘉永5年(1852)に務川忠兵衛が郡奉行になると、異国船出没のため物入りと称し、年貢を3年後に米納に切り替えることや、猶予期間中の金納も原町近隣の米相場に準拠することを申し渡されます。
これまでの天領時代には、年貢は金納で、しかも天領相場が適用されていたのと比較すると、百姓の負担は一気に増大し、しかも米商人と結託の上で相場操縦をして増収を図っていたこともあり、安政2年(1855)には、南山36か村の百姓の代表者が陣屋を訪れ、天領時代の旧慣に戻すように嘆願書を提出します。
ところが、奉行は彼らを入牢や手鎖の処分として、苛斂誅求をやめなかったため、伊那郡今田村の庄屋・小木曽猪兵衛らは、江戸表で門訴や箱訴によって嘆願を繰り返すものの、安政6年(1859)冬には、ついに強訴によって要求を通すのやむなきに至ります。
小木曽猪兵衛は、一揆で刑死した後に佐倉藩堀田氏に祟って没落に追い込んだとれさる佐倉惣五郎の霊を祀る「宗吾大明神」を地元の大願寺境内に勧請して精神的な支柱とした上で、かつての一揆で村々に犠牲者を出した(文政年間の「紙問屋騒動」など)反省から、惣代のもとで隊列を組んで統率のとれた行動をするよう百姓らを指導し、12月27日、南山郷の百姓1800人あまりによる一揆を決行します。
このとき、南山郷からは天竜川を渡河して八幡原に至り、その後に飯田城下を通り抜けなければ市田の陣屋に行くことができない地理的な条件にあったため、いったん飯田藩の役人に足止めを食らい、郡奉行の務川忠兵衛が出張らなければ収拾がつかない状況となります。
このため、現地では務川忠兵衛と、「無双の強情者」と言われた北沢伴助ら百姓らの惣代による言い争いとなり、結局は飯田藩の仲介もあって、天領並のみ相場での石代金納を認めさせることができ、一揆は解散します。
これを「南山一揆」といますが、その後、他藩にさえ迷惑をかけた白河藩では、務川忠兵衛を罷免、後任の郡奉行の牧田平兵衛は、改めて百姓らに嘆願書を出させて要求を受け入れ、徒党を組んでの強訴については罪に問わざるを得ないため、南山一揆の惣代の北沢伴助ほか松尾順左衛門、沢柳文右衛門、長田権左衛門の4名を1か月の入牢とすることに決め、江戸時代としては稀な、百姓からは処刑される者を1人も出さずに収束した一揆となりました。
この事実を顕彰するため、明治25年(1892)、大願寺境内に「南山之碑」が建てられ、一揆の経緯や南山郷の功労者の名前が刻まれています。
宗吾大明神へのアクセス
名称
- 宗吾大明神 [参考リンク]
場所
- 長野県飯田市龍江6822
(この地図の緯度・経度:35.4405, 137.8274) 備考
- 「宗吾大明神」及び「南山之碑」は、長野県道237号、りんご狩りの柴本農園の急カーブから枝道に入った先の大願寺境内にあります。うち「南山之碑」は山門を入ってすぐの鐘楼脇(35.4401, 137.8272)にあり、「宗吾大明神」は「南山祠」「天満宮」と並んで大願寺北側の丘陵斜面に移築されています。
参考文献
- 八右衛門・兵助・伴助 (1978年) (朝日評伝選〈20〉)
- 南山一揆 (1970年) (伊那文庫〈5〉)
- 百姓一揆の展開 (1972年) (歴史科学叢書)
- あっぱれ伴助:絵本 南山三十六か村一揆ものがたり (作:小林正子、絵:北島新平 おさひめ書房、2010年)
[参考文献が見つからない場合には]