義民のあしあと

大竹与茂七(五十志霊神社)

越後国蒲原郡中之島村(今の新潟県長岡市)の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自身の山の木とともに、新発田藩の藩有林を無許可で伐採して堤防を補強し、流域の村を救います。
この一件は中之島組大庄屋の星野儀兵衛らから藩に訴えられますが、裁判では咎めなしとなります。
正徳2年(1712)、これを面白からず思った大庄屋から、さらに凶作の際の借金の未納などを巡って訴えられ、釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈しなかったものの、ついに百姓一揆を煽動したという無実の罪で、翌正徳3年(1713)に処刑されます。
これを「与茂七騒動」といいますが、その後、城下に大火が起こるなどの不幸が重なり、与茂七の祟りと噂されたため、藩によって祠に祀られ、現在は五十志霊神社の祭神となっています。



義民伝承の内容と背景

越後国蒲原郡中之島村(新潟県長岡市)の名主であった大竹与茂七は、宝永元年(1704)の大雨で刈谷田川の堤防が決壊した際、自身所有の山の木とともに、足りない部分を、名主の上に立つ中之島組大庄屋の星野儀兵衛所有の山林や、新発田藩の藩有林から無許可で伐採して堤防を補強し、流域の村を救います。
この一件は大庄屋らから藩に訴えられますが、裁判では咎めなしとなります。

正徳2年(1712)、これを不満に思った大庄屋の星野儀兵衛からは、凶作の際に御救米金として貸した借金が未納になっていると再度訴えられ、一方で与茂七のほうも、大庄屋が藩が定める以外の不当な雑用銀を取り立て不正をしていると告発して訴訟合戦になります。

この一件では吟味方を務めていた家老の梶舎人と高久将監とで意見が対立し、反与茂七派と与茂七派に分かれていましたが、与茂七に同情的だった高久将監が病死したことで次第に与茂七不利の形勢となります。

そして正徳3年(1713)、一味を結んで大庄屋に非義を申し掛けたとして、大竹与茂七と脇川新田名主の広島善助が獄門となり、その首は新発田城外の中曽根刑場から中之島まで護送され、与板道沿いに3日間にわたり晒され、他にも中興野村名主小助、池之島村名主三太兵衛倅安左衛門、灰島新田名主喜平太の3人が与茂七に加担した罪科で死刑となります。

この際、与茂七は釘抜きで歯を抜かれる拷問にも屈せず、陥れた人間を末代まで祟ると言い残したとされ、返済したはずの借金で無実の罪を着せられた無念を「今はよし あらぬ濡れぎぬ 身に負えど 清き心は 知る人ぞ知る」の辞世に詠んだと伝わっています。

これを「中之島組騒動」「与茂七騒動」といいますが、その後の享保4年(1719)には新発田城下で千軒あまりを焼く大火が起こるなどの不幸があり、人々は与茂七の祟りによる「与茂七火事」と噂し合います。
藩でも与茂七の祟りを恐れて祠に祀り、現在は諏訪神社の末社五十志霊神社の祭神(与茂七さま)となり、火防の神として慕われています。

五十志霊神社へのアクセス

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名称

五十志霊神社 [参考リンク]

場所

新潟県新発田市諏訪町1丁目8-9
(この地図の緯度・経度:37.944715, 139.331221)

備考

「五十志霊神社」は、JR新発田駅のすぐ西側に鎮座する諏訪神社境内にあります。正面の神門の向かって左手の車両進入路の入口近くで、周囲には大竹与茂七の事績を解説した案内板もあります。
「義民大竹与茂七の碑」も、この「五十志霊神社」に隣接した場所に建てられています。


「与茂七地蔵」と「義民大竹与茂七墓」(37.5401,138.8773)は、長岡市中之島の中之島文化センター北側隣接地にあります。地蔵は紫色の法衣をまとった姿で堂内に丁重に祀られています。


「名主与茂七鎮魂の地」(中曽根処刑場跡、37.9610, 139.3095)は、国道7号新発田バイパス中曽根町交差点の100メートルほど南東にあり、周囲はほぼ住宅街ですが、この一角だけ公園状の空地となっていて、小堂の中に地蔵尊が祀られています。




参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

中部地方 大竹与茂七 与茂七騒動