助六の首塚(福田助六と助六騒動)

助六の首塚 義民の史跡
助郷一揆の犠牲となった村役人の埋葬地

安永7年(1778)、過重な年貢や助郷役の負担に耐えかねた常陸国新治郡(今の茨城県)本堂氏領25か村の百姓が江戸屋敷に強訴し、下佐谷村(今のかすみがうら市)名主の福田助六が頭取として獄門に処せられました。現地には助六を供養するための墓碑などが残されています。

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義民伝承の内容と背景

茨城県かすみがうら市の志筑地区は、江戸時代には旗本・本堂氏の領地となっていました。本堂氏はもとは出羽国山本郡(今の秋田県仙北郡)の小領主でしたが、関ヶ原の戦い後に出羽移封となった佐竹氏と入れ替えに、旗本として常陸国に8,500石の領地を与えられます。

しかし、実高が家格と見合わなかったことから埋合せのため領内に過重な年貢を課しており、あまつさえ水戸街道の稲吉宿の助郷役の負担もあり、領民たちは疲弊していました。近隣の村々にも加助郷の負担があり、これらの村々から集めた200両で人足を雇い入れて実際の労働の代わりにしようとしたところ、藩にそっくり取り上げられたことから「安永の一揆」が勃発します。

下佐谷村の名主であった福田助六(屋号は与惣左衛門)らは、高札場に張り紙をして志筑陣屋の非法を訴えたものの埒が明かず、25か村の百姓らとともに嶋木(四万騎)原に集合し、安永7年12月(1779年2月)、江戸表の本堂氏の屋敷に強訴しました。

その結果、助六らの指導者は逮捕され、助六だけが獄門、他には永牢などが申し渡されました。助六は安永8年(1779)9月16日、俗に「首切山」と呼ぶ志筑藩の刑場において、郡奉行・永田元右衛門ら検視役人の立会いのもと、太刀取を務めた代官・杉山元右衛門の手により斬首され、その首は街道筋に3日にわたり晒されました。

梟首されているところに通りかかった水戸藩主の計らいで首級が返還され、現在かすみがうら市の指定文化財となっている「助六の首塚」に密かに埋葬されたほか、義民助六を弔うため閑居山に「助六地蔵」が営まれたと伝えられています。また、下佐谷の一念寺にも「福田助六墓碑」がありますが、墓碑の後ろにある「南無阿弥陀仏百万遍供養塔」は、処刑後に周囲の不幸が重なった杉山代官が建てたといわれています。

参考文献

『茨城県史』近世編(茨城県史編集委員会 茨城県、1985年)
『茨城の百姓一揆と義民伝承』上(木村由美子 筑波書林、1985年)
『千代田村史』(千代田村史編さん委員会 千代田村教育委員会、1970年)

助六の首塚へのアクセス

名称

助六の首塚

場所

茨城県かすみがうら市下佐谷770-1

備考

常磐自動車道「千代田石岡インターチェンジ」から車で5分。茨城県道64号土浦笠間線沿い、子孫の経営する「福田グリーン農園」入口の長屋門に「助六の首塚」の由来を記したかすみがうら市教育委員会の案内板があります。「首塚」は門の150メートルほど先にあり、入口に「町指定文化財 助六の首塚」の看板が掲げられています。

関連する他の史跡

福田助六墓碑・南無阿弥陀仏百万遍供養塔
助六地蔵と称する地蔵尊

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