義民のあしあと

伏見義民(伏見義民事蹟)

ちょうど「天明の飢饉」の只中にあった天明5年(1785)、伏見の町人・文殊久助ら7人は伏見奉行・小堀政方の悪政を幕府に直訴し、小堀正方は罷免されたが、町人7人は取調べの最中に獄死した。庶民を救ったこの7人を顕彰するため、「伏見義民」と称し、明治時代に御香宮神社内に石碑が建てられた。



義民伝承の内容と背景

江戸時代の伏見は、京都と大阪の市街地を結ぶ中間にあり、陸運、舟運ともに栄える交通の要衝であったため、特に幕府の直轄とし、伏見奉行を置いていた。

この時代、老中・田沼意次に接近した近江小室藩(今の長浜市)の6代藩主・小堀正方(まさみち)は、幕府の要職を歴任し、安永8年(1779)には伏見奉行の職にも就くこととなった。

小堀家は茶道家、作庭家として知られる藩祖・小堀政一(小堀遠州)をもつ由緒ある一族だが、正方は自らが酒食に耽るため、あるいは藩財政の穴埋めとして、伏見の町民らから御用金を不当に徴収したため、民衆の煩いは大きかった。

時しも江戸四大飢饉に数えられる天明の飢饉が起こり、都市部でも米価が高騰していたところ、このような悪政を見るに見かねた伏見元町年寄の文珠九助ら7人は、身を捨てて幕府に直訴することを企てた。

天明5年(1785)、江戸城から下城の途中だった寺社奉行・松平伯耆守の駕籠に近づいて直訴状を提出した。(「伏見天明事件」)

このころ、田沼意次が失脚し、代わって「寛政の改革」で知られる松平定信が老中に就任したこともあり、天明8年(1788)、小堀正方は在職中の不正を理由に奉行を罷免され、最終的にその身柄は相模小田原藩・大久保家にお預けとなり、近江小室藩も廃藩となった。

しかし、直訴後に捕縛されて過酷な取調を受けた7人、すなわち、文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋権兵衛も相次いで獄中で死亡し、人々はこの義挙をたたえて「伏見義民」と呼んだ。

この顛末はほどなく『雨中之鑵子』(うちゅうのかんす)としてまとめられ、昭和12年(1937)には伏見義民碑保存会によって刊本化され、広く町民一揆の代表例として知られるようになった。

京都伏見の大黒寺には、江戸に赴いたこれら伏見義民が死を覚悟して送ってきたという遺髪を寛政年間に埋めた「伏見義民遺髪塔」がある。

また、明治20年(1887)の百年祭を機に、伏見義民を顕彰するため御香宮神社境内に石碑が建てられ、碑文は勝海舟が撰文し、題字は三条実美が揮毫した。

いまでも毎年5月18日になると、義民の子孫らによって「伏見義民祭」が行われている。

伏見義民事蹟へのアクセス

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名称

伏見義民事蹟 [参考リンク]

場所

京都府京都市伏見区御香宮門前町地内
(この地図の緯度・経度:34.9331738, 135.7671991)

備考

「伏見義民事蹟」の碑は、御香宮神社の表門入ってすぐ左側の岡の上にあります。


「伏見義民遺髪塔」(34.9368,135.7609)は、京都府京都市伏見区鷹匠町4所在の大黒寺境内、本堂左手に3つほど並んだ石碑の最も右側にあるものです。表面に伏見義民7名の戒名が刻まれています。



参考文献

リンク先のAmazonのページ下部に書誌情報(ISBN・著者・発行年・出版社など)があります。リンクなしは稀覯本や私家本ですが、国立国会図書館で借りられる場合があります。
[参考文献が見つからない場合には]

近畿地方 伏見義民 伏見騒動