土川平兵衛(天保義民碑)
天保13年(1842)、飢饉に陥った甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓4万人が徴税強化を目指す幕府の検地に反対して一斉蜂起した「近江天保一揆」では、検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取ったものの、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人が江戸送りとなり、過酷な拷問で命を落としました。明治時代になって、これらの義民を顕彰するため、いまの野洲市三上の地に「保民祠」や「天保義民碑」が建てられました。
義民伝承の内容と背景
江戸後期の天保年間、全国的に「天保の飢饉」が発生しましたが、近江国においても、自然災害による水田の損壊や食料不足により、村々は騒然とした状況でした。
そのような中で、農村における徴税強化の一環として、近江国では幕府主導による検地が強行され、検地奉行として市野茂三郎が派遣されました。
この検地の過程では、意図的に長さの短い間尺を使った測量による無理な石高の捻出、賄賂の強要などもありました。
このことに対して、天保13年(1842)10月15日、三上村の庄屋である土川平兵衛をはじめとする甲賀郡、野洲郡、栗太郡の百姓らは一斉に抗議し、「近江天保の一揆」(甲賀騒動)が巻き起こりました。
一揆勢は水口藩の崇敬社であった矢川神社に集合すると、野洲川沿いを進んで検地役人の陣屋があった三上村を包囲し、その数は4万人にも膨れ上がりました。
市野茂三郎は三上山に逃れ、百姓側は陣屋に残った検地役人から検地の「十万日日延べ」の証文を勝ち取り、所期の目的を達成しました。
そのかわりとして、後日京都町奉行所に多くの百姓が捕らえられたほか、一揆の指導者である土川平兵衛ら11人は江戸送りとなり、過酷な拷問で裁きを待たずに命を落とし、その罪は獄門に値するとされました。
同時に土川平兵衛の妻子も叩きの上で所払いとなるなど、理不尽な仕打ちを蒙りました。
これに対し、天保15年(1844)には大徳寺の光誉上人が水口藩主・加藤明邦の許しを得て近江天保一揆の犠牲者を供養する無銘の五輪塔を建てています。
明治時代に土川平兵衛はようやく大赦となり、これらの義民を顕彰する目的で、国宝・御上神社に近い滋賀県野洲市側の三上山の登山口付近に明治26年(1893)に「保民祠」(ただし、現在のものは平成4年再建)が、明治28年(1895)にその脇に「天保義民碑」が建立されました。
ほかにも、百姓らが野洲川を渡った場所という湖南市三雲にある伝芳山には、明治31年(1898)、高さ10メートルほどの「天保義民之碑」が建てられました。
最近でも「近江天保の一揆」から140年目にあたる昭和57年(1982)に、御上神社の近くの共同墓地内に土川平兵衛の墓が建立され、郷土の義民として顕彰が行われています。
天保義民碑へのアクセス
名称
- 天保義民碑 [参考リンク]
場所
- 滋賀県野洲市三上地内
(この地図の緯度・経度:35.04960, 136.0313) 備考
-
「保民祠」及び「天保義民碑」は、御上神社近くの三上山登山口付近にあります。国道8号の三上交差点に「天保義民碑」「三上山登山口」の道路標識が建っていますので、これを目印に交差点を曲がります。しばらく進むともう1か所に同様の道路標識がありますので、この交差点も曲がって150メートルほどで現地に到着できます。普通車5台ほどの舗装された駐車場があります。
もう一つの「天保義民碑」(34.982772,136.120879)は、三雲駅の東側の高台にあります。駅前の道路(旧東海道)を東に進むと石碑への進入路入口に江戸時代の「横田常夜灯」と、「天保義民碑」および「ビジネス旅館天保閣」の看板があり、看板に従い踏切を渡った先になります。
「土川平兵衛の墓」(35.0529,136.0205)は、御上神社前の県道504号線を800メートルほど北西に進んだ共同墓地内にあり、旧野洲町観光協会が案内板を建てています。なお、この墓は本文にもあるとおり比較的新しい時代のものです。
「甲賀騒動義民の霊位五倫塔」(34.9710,136.1731)は、甲賀市水口町本町三丁目3-46所在の大徳寺境内、山門入った左手奥のほうにあります。五輪塔そのものは無銘ですが、その脇に解説板が建てられています。
参考文献
- 燃え上がれ、一揆の炎―天保の近江騒動をひきいた人びと (新ものがたり日本歴史の事件簿)
- 天保の義民 (岩波新書)
- 『甲賀郡志』下(滋賀県甲賀郡教育会、1926年)
- 『近江天保一揆とその時代』(野洲市歴史民俗博物館、2005年)
[参考文献が見つからない場合には]